韓国の精神疾患への否定的な感情と自殺予防対策(と前記事への批判について)

前回書いたジョンヒョンに関する文章は大きな反響をいただきました。多くの人々にとってジョンヒョンという人がそれぞれの人々の中で大きな存在であったり、大切な存在であったりしているということのあかしなのだと感じられました。

批判もあり、そのとおりだと感じられることもあったので、書いてみようと思います。






第一の批判として、人の死の原因は究極的には分からないのだから、分析などできないというもの。第二に、いまはまだそっと冥福を祈るときなのにこんな文章読みたくなかった、というもの。

彼の死の究極的な原因は孤独であったでしょうし、それは確かに個人の中の問題と言えるのでしょう。自殺というものを社会的な側面から分析するというのは危険さを伴います。ただ、韓国には全体的に「あなたは生きていていい」という雰囲気が不足している、ということです。それは、韓国におけるお年寄りの自殺率の高さからもみえて、実際には、老人福祉の弱さが老人への生活を圧迫しているという現実的な問題もあるのですが、やはり、人それぞれが「生きているだけでいいのだ」という感覚の不足が基本にあるのだと思います。そしてそういう社会的な雰囲気が個人の息苦しさ、孤独感につながっているのだということです。

韓国の青少年の自殺率は、全体的な自殺率が減少傾向になる中、増加傾向にあります。(参考)10代の死因は身体的な病気や交通事故よりも自殺が30%を占めています。自殺の原因は、認証欲求が満たされていない、社会において自分が必要な存在であると感じられないといった鬱症状が44%を占めていると思われます。未来への不安、つまり勉学へのストレスは高いもののそれに見合った成功が得られないというという高ストレス社会は青少年たちも感じるくらい蔓延しているのです。

鬱というものは言えないからこそつらいのだ。理解してもらえないからこそつらいのだ。個人の内面の問題であり社会的な問題ではないというのももちろんです。でも、そこにも韓国社会が見えてきます。韓国ではまだまだ「精神科」にかかることへの偏見も強く、病院へつながることへの精神的障壁が少なからずあります。人々が心の問題について話すこと、相談することへの忌避があるのです。なのに振り絞って精神科に行ったところで「みんなそんなものだ」と言われるという絶望。でも精神科医が普通というくらいストレス度が高い社会が見えてくるのです。韓国社会が精神力で乗り越えてきた自信もあり、精神的に参ってしまうということに関しての評価が低いです。미첬다.ミチョッタ(狂った、日本語的にオブラートに包めばどうかしているというという程度の意味)という単語の使用にも精神的な弱りを悲観する思想が見えます。日本語の感覚で言えば「くるってんだよ。」「あいつ、くるったんじゃね?」という言葉を使う頻度がドラマを見ていても高い。ミッチョッソ?と聞くのは、気でも狂ったのか?程度の翻訳になると思うけれど、この使用頻度も高いことから、「精神的にコントロールできない状態」への感情表現が直接的で軽蔑が内包されていると感じられます。前記事は、そのような社会が見えても、うつ病にかかる前段階として、個人的な気持ちの逃げ場所や社会的に生きるものすべての生を受け入る態勢があれば、死という選択まではいかなかったのではないかという脈略で書いたものでした。

そういう点をぶっ飛ばして分析だけ書いてしまったため、大変不謹慎な態度に文章が見えたというのはあるなと思います。


話はずれますが、2018年になりアメリカの超有名youtuberローガン・ポールが日本に来た時の映像を公開して大きく批判されました。批判される点は、アジアというものを蔑視している、人の死を愚弄している、公共の場所で騒ぐことは多くの人に迷惑をかけているという一つではない点が批判の的になりました。その中の批判の一つに、ローガンの女友達が樹海での自殺の死体を前に笑顔を浮かべているというものがありました。不謹慎である、と。その批判を見たときに私も同じだなぁ、と感じたのです。私は目の前にある悲しみに集中できないのです。

ジョンヒョンの死のニュースに触れた瞬間は辛さがありました。しかし、次の瞬間には、どうしてそうなった、どうにかすくえなかったのか、どうにか逃げ道はなかったのか、と思考が進んでしまうのです。自分の生活でも、いろいろなひとの葬式の時にはもう冥福を祈るときは過ぎ去ってしまっていて、葬式参列中思考が飛んでしまっているという不謹慎さが自分の中にあるのです。そして、今回もその不謹慎さが出てしまった、と。

だからこそ、私の文章は、静かに死を悼みたいと思っている人を傷つけました。彼の死は、分析されるようなものではないんだ。彼の辛さは分析などできないものだ、と。本当にその通りだと思います。

ただ、鬱が原因であるならば、鬱に至らないほうがいい、鬱という病気にかかってしまったならなんとか死を選ばないような道に行ってほしい、孤独からなんとかつながる道を見つけてほしいという考えから書いたのですが、そういうのが感じられないのは、あまりにも厳しい韓国の現状や彼の居たアイドルという職業の特殊性が反映されているせいだと思います。

福祉は無力です。困っている人、つらさを抱えている人、つらさを抱えていても基本的に自分から「困っている」ということを伝えられないと福祉にはつながれないです。鬱に関しても、周辺が必要なことは「今頑張っているんですよね。それで十分です。よく頑張りました。」とそれ以上何も求めないことだと思います。また、休息をとることを自分にできるかどうか部分があると思います。でも、「今ちょっと辛いんだよね~」と友達に話したとして、最終的に出てくる言葉は「힘 내! (ヒムネ)」(直訳すると「力を出して!」元気出しての意。)いや、もう、力を出すための力すらないんだけど、それでも出せっていうんですかね、と、結局自分が責められているように感じてしまうのです。それくらい、そうだよね、友人という存在も究極的には力にならない存在なのか、結局力すら出せない自分が悪いのだなどと思考が否定的になっていくのです。だからこそ発信しなくなる。それが、究極的な形で表れてしまうから、なんとか、防いでいきたいという思いもあるのです。





韓国の老人の自殺率の低下には、農村部で手に入れやすかった農薬の生産をやめるといった、そもそも死の手段を断つという方法が有効的でした。また、青少年や中高年の自殺に関しては、ドラマやマスコミにおいて自殺に描写をしない、自殺方法についての報道をしないという部分に躍起になっていますが、そもそも精神的ケアというものを多くの人々が必要としており、決して他人事ではない、という認識が広がることが根本的で簡単な方法なのではないのかと思うのです。でも、韓国は、そういう根本的な解決の方向よりも、物理的な予防策が強いなと感じられます。

自分の辛い気持ちや嫌だという気持ちを出すことは精神的な健康上大事であり、弱気な気持ちであったり、逃げ出したいと思う気持ちを吐き出すことは悪いことではないという認識が広がることが自殺防止につながるのではと個人的には考えています。また、そういうきもちを告白された場合に、何か解決方法が必要なのではなく、いままでのことを否定するのではなく、なにしろ大丈夫だ、頑張らなくてもいいんだよ、といってあげることができればいいのかなと思います。

しかし、このような考えを悪用する人々も多いのもまた問題なのですよね。フェミニズム批判をすると絶対怒られますが、フェミニズムも不快や不平等であるという部分を言い過ぎれば逆不平等を生んでおり、それがまた息苦しさをうんでいるという部分もあるわけですが…

結局、自分の思いを表現することは大事なのですが、主張しすぎる輩が自分の思いを受け取らない側が悪いという論理で責めるので、やっぱ、逃げ道無い…という現実にまたぶつかってしまうのが、今の韓国の現住所なのかなと感じています。

自分の不謹慎さを棚に上げ、また分析してしまいましたが、このブログ自体が不謹慎の塊でもあるなとも思ったので、やっぱりこれからも不謹慎に気になったことをかきたいまま書いていくと思います。その点は本当に申し訳ないです。






koreal.netの他の記事

No tags for this post.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です