「2PM」タグアーカイブ

2PM チャンソンがtwitterに投稿したニュースのKOREAL的解釈

ふと思ったんだけど、ジョージオーウェル先生はやっぱりすごいんだなって思った。

2PMのチャンソンさんが社会的なことをtwitterにあげていたので自分の解釈を含め書いてみます。
ジョージオーウェルに関してはレビューだけでいいんじゃないでしょうか?正直長すぎですし、興味ない人には苦痛で仕方ないと思います(笑)

なんであがらないんだろう?(なんでニュースで取り上げられないんだろう?話題にならないんだろう)

      正しいものは正しいのだといっていい

幸せは成績順なんかじゃないんじゃないですか?私はその成績順という枠にとらわれてその中でもがき苦しんで生きていくことを軽蔑します。

私は韓国の今の一番の問題点は、君主(政治家)には正しいことを求めるんだけど子供にはずるい手を使ってでも勝てという矛盾だと思うんですよね。この点は日本とは違うかなって思うんです。日本では、生きにくい社会になればなるほど消費を少なくしむしろ真面目に生きて正しさを実践しようと没個性になっていってそれはそれでいいことでもなさそうだけど。韓国の本音は正義はかえられねばならないと思っているのに建前である「うまくこなす」ことだけをもとめるんですよ。それってやっぱり本質でなくて。正しいものは正しいという本質を教えたうえで建前に行けば、勉強も受け入れられるかもしれないのに。韓国の若者は学びに正義が不在していることがわかってるから窮屈でしかたがないんだと思うんですよね。だからむしろ反動で勉強を、そして生そのものを完全拒否したりする。映画の題材の子のように。

      韓国人の理想像は正義と権力を兼ね備えたスーパーマンである

勉強ができる人を人格者ととらえる儒教文化の影と試験結果がよいことを「成就」ととらえる近代的能力主義が韓国人の生活に大きく影響を及ぼしている。『差別に賛成だ』の著者である社会学者オチャンホ博士は「韓国の社会が西洋とは決定的に違う点は急激な経済成長において質的な成長を望むのではなく個人的な何かを成し遂げた人のことを「良い」と考える文化があること」であると話す。

私のブログの韓国政治の宗教化でも言ってるんですが、韓国は歴史的に君主の理想形として権力と政治が両立するんですね。王様は勉強(教科書をまる覚えすること)と民のことを思い政治を行う。この理想像は韓国人の共通イメージなんですけど。現代は国民のほうを向いた政治とは程遠くて、それに失望している状態、そして社会全体にその失望がひろがっている。
で、それが勉強勉強の現代とどう関係があるのかと言えば、朝鮮時代から続く科挙試験なんですが、これは実によくできた制度で科挙に合格することで人生一発逆転できた。この制度は朝鮮において「勉強できれば勝ち組になれる」の源流あると思うんですよ。勝てばそれが正義じゃないですか。社会的地位、権力。

この記事に出てきた「幸せって成績順じゃないでしょ?」という言葉だけど残念ながらもとからそうだったと思うんですよ。今に始まったことではなかった。朝鮮時代風に言えば現代が「総科挙受験国家」になったということだと思うんです。日本では専門学校が担当する職業訓練にも受験という文言がつきまとうし。具体例でいうとお笑い芸人などの一部芸能分野も大学の芸能学科や放送学科にはいり、テレビ局付きになりるという、「大学からお笑い芸人への就職」という道がある。(給与は一般職とはことなるし認知度が上がると事務所にはいる。)

学力が高いほど全体的に生活に関しても自身の職業に関しても満足度が高かった。全体平均の31.1%をおおきく上回った。(中略)似通った満足度は「4年制大卒業」を境に段階的に大きく下がっていく。専門大卒35.1%、高卒28.8%、中卒23.1%であった。「自分の職業に満足している」の設問に対しては上位圏大学出身者は47%で全体平均の23%の2倍である。高卒の満足度は19%であった。2000年代中盤においては4年制大というラインが幸せの大きな壁であった。

ただ、階級社会でなくなったとはいえ総科挙社会なので結局受かったものと受からなかったもので格差が生まれる。4年制かそうでないかで分かれる、「幸せの壁」。

西洋的な個人主義と個人の努力で試験に受かれればランクアップできる朝鮮の制度はよくマッチしたんだと思うんですよね。そしてその頑張りによる報酬がでかいのでやるしかない、と。朝鮮時代では受かったものとそうでないものであきらめもついたんですが、現代では、すべての国民がよくいきたいと思っているのにかなえてくれない政治がわるいんだ、となるわけです。不満を持つ度合いが島国の我々から見て高く感じるのは韓国人の理想の君主像(正しい人格を持った人が正しい政治をする)からもあたりまえのことだとおもうんです。だからこそ政治が、勉強の本質についてもっというべきだとおもうし、そのように変えられるところはかえればいい。実際は競争社会であれ。(主力勢力がやろうと思っても足を引っ張るのが反対勢力だということには注意。批判先はどこか。参照

「1位なんて嫌なんだけどな」「夢があるんだけどな」「私は友達がほしいのに」この言葉はお母さんが嫌いな言葉だよね。私にいつも手段や方法を選ばないで勝ちなさいと話したお母さん、友達とは遊ぶな、と悲しい言葉ばかりおっしゃるお母さん。矛盾してるけどその人こそ自分を15年間育ててくれた大切なお母さんです。

ただ、上にもある通り、儒教的に逆らえないのが両親、教師という存在。子どもにとって、支えてくれる存在であるどころかプレッシャーを与えてくるのが彼ら。子育てにおいてお父さんお母さんは見守る立場でいましょうなどという優しさはないわけではないだろうが、父権的で逆らって理論的につぶしにかかろうものならその先はご想像にお任せします、だ。正しいことは正しいといいたいのに、絶対的に正しい最も身近な存在がそもそも見方でないというのは若者にとって絶望だろうなと思います。






 

以下にニュース本文の抜粋を載せておきます。後半の具体的な紹介は力尽きました。すみません。

「1位なんて嫌なんだけどな」「夢があるんだけどな」「私は友達がほしいのに」この言葉はお母さんが嫌いな言葉だよね。私にいつも手段や方法を選ばないで勝ちなさいと話したお母さん、友達とは遊ぶな、と悲しい言葉ばかりおっしゃるお母さん。矛盾してるけどその人こそ自分を15年間育ててくれた大切なお母さんです。幸せは成績順ではないものじゃないですか?私はその成績順という枠にとらわれてその中でもがき苦しんで生きていくことを軽蔑します。

1986年1月15日にソウルの女子中学生が友達に手紙で遺書を残してマンションの屋上から身を投げた。全校1位にもなったが幸せを感じられなかったある中学生の死は社会に大きな衝撃を与えた。この事件は映画化され「幸せは成績順じゃないじゃない」という映画が作られ、「インディアナジョーンズ」を抑え1位を記録した。

1989年に全国教職員労働協会の発足、真教育運動の契機になった。しかし学閥(良い大学を出ることによる社会的地位)はなくならなかったし、in seoul(インソウル:よい大学がソウルに集中していることから。ソウルにある大学を指す。)、地雑大(地方にあるインソウル以外の大学を指す。)など大学の序列を表す表現は多様である。Orbis Optimusなどの受験生用情報共有サイトが現れ始めたのもこの時期だ。このころの10代が30年前の10代とは異なり競争の価値を内面化したせいだろうか。でなければ、韓国社会において幸福は成績順でないという前提ははじめから間違ったものであったのだろうか。

2月17日にソウル大学で開かれた経済学共同学術大会において、キムヨンチョル祥明大金融経済学科教授は学術研究論文「幸せは成績順ではないじゃないか?:学力(学閥)の非経済性効果の推論」において「名門大学卒業であればある程生活の満足度が高い」と発表した。いい大学を出れば、生活における全体的な満足度が高いということである。

キム教授は成人9997名を対象に調査を行い韓国労働パネル調査(KLPS)7次年度(2004年)の資料を基に分析した。これによって生活満足度と学力・出身大学などの相関関係を調べた。学力は入学時平均成績を推測し上位圏大学(10大学)、中・上位大学(30大学)、中位圏大学(40大学)、その他の4年制大学、専門大学、高卒、中卒以下に分け比較した。

学力が高いほど全体的に生活に関しても自身の職業に関しても満足度が高かった。全体平均の31.1%をおおきく上回った。(中略)似通った満足度は「4年制大卒業」を境に段階的に大きく下がっていく。専門大卒35.1%、高卒28.8%、中卒23.1%であった。「自分の職業に満足している」の設問に対しては上位圏大学出身者は47%で全体平均の23%の2倍である。高卒の満足度は19%であった。2000年代中盤においては4年制大というラインが幸せの大きな壁であった。

収入が多いから当然安定的な生活ができ満足度も高いのではないか。名門大の卒業証書が就職において有利であり「給与プレミアム」の役割をするというのは早い時期からあった研究であった。『韓国教育』33号に掲載された「大学の序列に反する経済的収入分析」においても2000年代中盤において上位圏10大学の卒業者は100大学の卒業者平均よりも23%多い給料をもらっているという分析があった。しかし、キムヨンチョル教授の研究結果からは「給料」の差だけではないことがわかる。キム教授は所得と職業上の職位が同じであると仮定して主観的な満足度を比較した。(数字略)つまり、同じ給与をもらったとしても、良い大学を出ればより幸せを感じるということである。





 

ジュンケイ(Jun. K)インタビュー②

インタビュー前半からの続き

最近のことについて

このインタビューはお酒を飲みながら正直に深い話を聞くというインタビューです。

ーほろ酔いインタビューのお決まりの質問なのですが酒はどれくらい飲めますか?
焼酎1本半です。これくらい飲むとかなり酔いますね。ビールはおなかが膨れるのであまり飲まないほうですね。焼酎がある飲みの場が好きですね。

ーお酒を飲むときは誰と飲むことが多いですか?
メンバーと、あとキムジョハンさんとです。偶然ジョハニヒョン(前述キムジョハン氏のこと。ヒョンとは男性から見た年上の男性を愛着を込めて呼ぶとき名前に付ける)となかよくなり、お酒を一緒に飲むことがおおいです。ヒョンはお酒をよく飲みますね。

ーよく話すメンバーは誰ですか?
6人全部そうです。最近も一緒にお酒を飲んだんですが個人的なことも全然隠さないで話せる友達ですね。悩み事も話しますしおたがいそうです。

ー最近はどんな話をしましたか
あたりまえですが2PMの将来のことです。去年JYPと再契約をしましたが来年は軍隊に行かなくてはいけないんです。じぶんとテギョンとです。ほかのメンバーもいつ軍隊に行くのかという話をしました。決まったことはないけれど結論は出ましたよね。6人がばらばらになることはないということです。もう一度確信を持ちました。

ー2PMは最後までいくっていうことですね?
解散はないです。自分たち同士で話しました。みんな30代に突入するところなので人生に関してもう一度考えることになると思います。でも2PMがなくなったりすることはないです。メンバー変更があることもないです。振り返ってみる時間になりましたね。不思議なことに話してみたらメンバーみんなオトナになってましたね。ただただ子供だったジュノもですよ。

ー覆面歌王に出演されて準決勝まで残りましたね。結果には満足してますか?
できすぎだとおもいます。覆面歌王は普通3週くらいかけて準備するんですが自分は5日前に話が来たんですよ。時間がなかったんですが前から出てみたかった番組だったのでやることにしました。2日前にバンドとの練習をしてなんとか準備しました。曲を選ぶのがけっこう制約が多くて。前に出演した歌手が歌った歌はだめなんですよね。推薦されて自分が歌うことになった曲がイジョク先輩の「レイン」でした。この曲は母が好きな曲です。自分はよく知らなかった曲でした。うたいあげるよりも自分の普段からのスタイルで淡白な雰囲気にしたかったんです。結果的に3ラウンドまで進出して驚きましたね。準備していた曲は全部うたったことになりました。「オンマ」(おかあさんの意)をうたった時は観客の中に何人か泣いている方もいらっしゃって。声だけで伝えられる歌の力を改めて感じました。

ー後悔はないですか?
日本に初めて行って2PMとしてデビューして公演をしたとき「雪の華」をうまく歌えなくて話題に上がったことがありました。音を外したんですが「ヤギの華」だってばかにされたりもして。本当に恥ずかしかった。歌手として、のどの管理をきちんとできなくてそうなってしまいました。声帯結節があったんですが新人だったので「できそうにない」といえなかったんです。今でもその動画は見られるんですけどそれを挽回したかったんです。ヤギの毛をつけて「雪の華」を歌おうとしたんですが準備する時間も足りなくて、覆面を作る時間もたりなくてそれはできませんでした。




家族のこと 練習生時代

ーご両親はどんな方ですか?
父は厳格な方でした。経済新聞の記者でした。母はつつましく私たちと多くの時間を過ごしました。中学校の2年の時、音楽のほうに進みたいと思ったんですが最初はできないだろうなと思っていました。父が厳しいですし自分に多くのお金を使えるような状況ではありませんでしたから。ご飯が食べられないほどではありませんでしたが家庭教師をつけてもらえるほどの環境ではありませんでした。そのころ自分は数学がうまくいかなかったんですが家庭教師代が30万ウォンほどかかるときでした。(家庭教師をつけてほしいと)母になんとか話してみたんですが父と母がけんかすることになってしまって。そんなかんじでした。そうして高校の1年の時進路を音楽に固めました。実用音楽を教えてくれるところがあったんですがそうしたらまたお金がかかるじゃないですか。家にはもちろん頼めないし、結局大邱で行われたいくつかの歌謡祭に参加しました。そこで偶然賞をとって。そのとき母は自分の思いを理解してくれたみたいです。父は反対し続けていましたが高校2年の時ソンヘ先生が司会されているドンソン路歌謡祭があったんですが、そこで1等を取って29インチの平面テレビをもらいました。父の部屋においてあげたら「これはどうしたんだ?」といいながらも喜んでくださいました。そのとき予備校に通うことの許可がおりました。月28万ウォンかけて9か月通ってJYPとYGにデモテープをおくったりもしました。

ーデモテープを送った後はどうでしたか?
実はYGから先に連絡がありました。そのあと一緒に音楽をしていた友達とYGにいったんです。ムグンファ号にのって。そのときヤンヒョンシク社長に会いました。2004年のはじめでした。そのとき社長がGドラゴンとテヤンに合わせてくれて、88年生でグループを作るんだと話していました。社長の前で「アイビリーブアイキャンフライ」を歌いました。社長はデモテープと同じで上手だといってくれました。そうやってほめられて気分もよくなって大邱に戻る途中でJYPから連絡が来ました。週末にJYPのオーディション大会があるから参加してみないかという話でした。最終的にはパクチニョンさんも来ていたそのオーディションで1等になってそのままJYPの練習生になりました。YGには電話で事情を説明したら、そっちでがんばるようにと応援してくださいました。

ーJYP練習生になったあとは?
私はダンスが本当に下手で基本から学びました。本当に怖い先生方にトレーニングを受けました。そのときのジニョンイヒョン(社長)の注文は「3か月でピ(レイン)のようにおどれるようにしろ」だったそうです。そうだったから雰囲気は本当に殺伐としてました。

ー2PMのなかで最初に練習生になったんですね。
そうです。でもデビューまではつらかったです。デビューが6回ほどなくなりましたから。いつからか機会が与えられても避けるようになったんです。不安だったし傷つきもしました。この道であっているのか違うのかと、ニックンとテギョンと同じ年であるように親しくなり、一緒にがんばろうと慰めあいました。
ー練習生の時に最もつらかったことは?
誤解されて会社から追い出されていた時がありました。毎日9時にカードを押して練習していたんですが、時間がなくて友達にカードを押してくれと頼んで、自分はコンビニで朝ご飯を買っていました。その日新人開発チームが自分をよんでいて、なんで偽装出席をさせていたのかと、誤解が生じて、大邱に返れと。大邱には帰れないので大学生の友達のところに一か月いました。そのあとまた友達のコシウォン(学生向けの広さが限られた部屋)にいました。生活費がないので新聞配達をして、日雇い労働にも行きました。でも、自分ができることってほとんどないんですよね。その時はよくないことが重なりましたね。




ーソウルでの生活は金銭的にも大変だったのでは?
2011年からお金を稼ぐようになりました。そのときの家はかびがはえるくらい良くないところでした。2012年1月に父に会って引っ越そうといいました。母が病気だったのでもうすこし良い家に移してあげたかったですね。母がモートン神経腫という歩くたびに足が痛い病気にかかっていました。なので、手術を5回しました。全身麻酔をする大きな手術でした。そのとき父と二人で母の病室から出て大邱のスソン湖で話をしました。父と二人でそうやって話をしたのは初めてでしたね。なのにその1週間後心臓麻痺でなくなりました。そのとき弟と自分は旅行中だったんですが父が倒れたと聞きました。息をしていないと。その時は何をしていたのか全然わからないし、全く信じられませんでした。5分後に医者から電話がかかってきて父が亡くなったので早く帰って来いと。あまりの衝撃に何をどうしていいかわかりませんでしたね。母は自分たちの旅行の邪魔になると倒れたという事実すら後から話してくれました。父が亡くなった日、信じられないし涙も出ないしいったいこれは何なんだ?というおもいでした。父の体を拭くとき父を見ましたがそのとき世界がすべて崩れ落ちました。そのときが旧正月の前でしたがたくさんの方が来てくださいました。大邱にまでです。そうやって父を送り出して、母が大邱に一人になってしまったので母を連れて来なければと思いました。弟が水原の京畿大学にいたので水原に引っ越しました。

ー改名の話はどうやって出てきましたか?
父が亡くなってから一か月後母から聞きました。でもいやで10か月は話を聞きませんでした。いままで知られていたのに変えてもいいことがないじゃないですか。そうした中母が甲状腺がんにかかり入院しました。足の手術を5回もしているので今度の全身麻酔からは覚めることができないかもしれないと医者が言いました。そのとき名前の話を病室でまたしたんです。なのでジニョンイヒョンと社長に話しました。このときジニョンイヒョンが「こういうときはお母さんの話を聞くのがいい」といってミンジュンに改名しました。そのとき作曲家としての名前のジュンケイなので芸名もジュンケイにするのがいいという意見が集まりました。しかし、改名後人々はなんでジュンケイなんだと悪くいうようになりました。事情を話したとしても生意気にみられるだけのような気もしましたし、2PMに関する問題もあったのでアンチファンもいました。そんな中で日本でソロ活動のアルバムがオリコン1位になりました。全部自分で作曲したものでした。韓国ではジュンケイ1位と報道されましたが、みんなだれなのかわからなかったようです。また名前のことで成果が隠れてしまうのか、と思いました。ストレスがひどかったですね。

ージュンケイにとって父とは?
ひとことではいえません。父とは対立的な関係でした。忘れられないことがあります。中高校生の時勉強していたら父が肩をつかんでそのまま去っていくんです。その気分を忘れることができないですね。朴訥(ぼくとつ)ながらあたたかみのあるかんじです。父に本当に申し訳ないです。もっと父との時間を過ごすことができたのに、まだ若かったんです。大邱に返っても友達と会うのに忙しかったし、父母と過ごす時間はあまりまりませんでした。父を先になくした友達が口癖のように「両親にやさしくしろよ」と言っていたんですが、今は自分がそういっています。両親と少しでも長く一緒にいてあげろ、と。自分はそうしてあげる勇気がない性格みたいです。両親もそうですし。まだ健在の人はそんな風にならなければいいなと思います。父が亡くなったというのはまだ信じられません。自分にはまだ大きな存在で、心が安定する存在です。

ー家長として責任感もあるのではないでしょうか?
父が亡くなってからは楽ではありませんでした。人生で最悪の年でした。失敗も多かったですし、お酒もたくさん飲みました。その後は家長としての責任感ができました。父が亡くなった後死亡届を出して父の会社の整理などすべて自分が行いました。母は病気がありましたから自分がしなくてはいけませんでした。自分もその時はまだ若かったですからわからないことだらけでしたが助けてくれる人もいませんでしたからね。その時思いましたね、自分が悲しんでいるだけでは何も進まないんだなと。社会というものを学びました。成長したのかな?弟に責任を押し付けようとしたこともあったのですが青春の50%をすでに失った弟を思うとそうはできなかったですね。弟には本当ありがたいなと思っています。

ーおかあさんはどうですか?
今は水原にいます。アパートは自分が準備しました。母の病気はよくなったりわるくなったりですね。

ー心配ですね
きついですね。2月3日が父の命日です。父の命日のたびに大邱の共同墓地ににいって声に出して話すんです。「母のことしっかり守ります。」と。なので、母と弟とうまくやっていこうとがんばっています。




これからの活動予定

ーソロとしてのジュンケイの活動は韓国では行いますか?
そうですね。新曲を出た場合会社でモニター30人評価を行うのですが80点以上でなければなりません。そのシステムについては自分は完全にいいものだと思うわけではないんです。80点という点数が答えであるわけじゃないじゃないですか。昨年にはそのケースがうまくいったのもあればそうでないものもありますから。これからは自分のことをできるだけ話していきたいです。自分が生きながら感じたことを人々が共感してくれたらとおもいます。いままでは芸術的な面を加味していたといえますがこれからはリアルに伝わる音楽を作っていきたいなと思っています。

ー日本ではソロのジュンケイが人気がありますね。
2PMとしてアルバムを出してからはけっこうたってしまいました。自分が作った歌としては2PMも併せて5枚で、ジュンケイ名義ではミニアルバムを二枚です。ソロアルバムではデイリーチャート1位ウィークリーチャート2位になりました。1枚目二枚目ともにです。本当ありがたいです。

ー韓国とは異なる反応ですよね?
日本ではテレビよりもコンサートを中心にうまくいっています。あの人が上手だといううわさがあればコンサートに来てくださいます。日本は直接見るということを重要視しているようです。コンサートではできるだけ自分のカラーを出したいと思っています。一生懸命しました。いつかは自分に機会が来るだろうと。そうしているうちに日本でソロの話が出てCDをだして良い結果につながりました。

ー韓国でもソロで活動してみてもらいたいものがあるんですよね?
韓国では自分の音楽が知られていないように思います。まずは自分がやりたいことをやってみれば「なんだろう?」と関心を持ってくれるだろうと思います。まだ2PMで覚えてくださっている方が多いと思うのでソロで出てしまうと自分への反感があるのではないかと考える部分はあります。韓国でどのように受け取られるかはわかりませんが、自分のやりたい音楽は必ずやってみたいと思っています。

ー2PMが向かうところはどこでしょうか?30代が近くなってきていますが。
30代というとこう、ガッと来るものがありますね。まずは2PMが見せられるものはまだあると思います。まだメンバーそれぞれが表し切れていないものがあると思うんです。皆さんの共感を得られたらそのとき2PMが一緒にするときのシナジー効果が大きいと思うんです。自分が思うに、転換点が必要なんです。メンバーそれぞれの個人の仕事も大事です。2PMがただでていくっていうのは自分たちも望んでいません。

ーパクチニョンさんに最もありがたいことは?
自分を連れてきてくれてことがありがたいです。選んでくれたということです。ジニョンイヒョンから学んだことは本当に多いです。音楽的にです。隣でヒョンが音楽作業をするところやレコーディングするところを見てです。ヒョンは勉強をよくするし、一生懸命生きている人です。体の管理もそうです。ステンレスを使わないそうです。体に良くないと。一度コンサートに行って驚きました。60代まで音楽をやるといっていて。ウヨンと二人でいたんですがその話を聞いてちょっとはーっと思っちゃいましたね。もう引退して自分たちに機会をくれたらいいのにって、ハハハ。本当に熱意はすごいなと思います。いつもありがたい方です。人生に危機が訪れてもその危機がより大きくならないように助けてくれるので。

ージュンケイの恋愛もきになります
彼女はいません。タイプは昔から女優のキムミンジョンさんです。なので彼女がコンサートに来てくれた時に写真を撮りました。自分のファンが彼女のところに行ってサインをもらうくらいです。小さいときに「キッドカップ」を見てはまりました。忘れられません。正直で、世の中の人が自分について悪くいったとしても自分の味方になってくれる人がいいです。あれこれ考えてああだこうだいうのよりは信じてくれるのがいいです。信じること、正直であることそういうことが大事だなって思います。

長いインタビューでした!




ジュンケイ「ほろ酔いインタビュー」やぎの華の屈辱、覆面歌王出演で挽回

やぎのはなってなんのこと?記事の中に出てきます!

ジュンケイ(2PM 28歳)は三つの名前がある。
出生時の名前はキムジュンス、改名後はキムミンジュン、芸名はジュンケイである。改名したことでネチズンの間ではいろいろな憶測がとびかう。「JYJのキムジュンスにひるんだのか?」というものから、「有名になりたくて名前をかえたのか?」「変えたところで俳優と一緒の名前かよ。」「この芸名いったいなんだよ。」など。なんといっても改名に関するコメントが多いので本人もこのことに関してはよく思っていないのは間違いない。しかし、本人には名前を変えなければいけない理由があった。そして改名には彼の家族と彼の人生をすべてが圧縮された事件があった。
2012年1月彼は父を亡くした。なくなる1週間前父とカフェで闘病中である母をしっかり看病していこうと話をして、立ち上がった後だった。心筋梗塞。突然の死だった。当時24歳であったジュンケイにはあまりにも大きな悲しみであった。経済新聞の記者であった父は厳格であった。しかし、勉強している彼の肩に手を置いて何を言うわけでもないがそのまま去るようなあたたかい家長であった。そんな父が亡くなる前まで望んでいたのが彼の改名であった。また、闘病中の母が大手術を前に5回目の全身麻酔を受ける前日彼の手を握りしめながら「父の遺言だから名前を変えることはできないだろうか?」とはなした。
ジュンケイにとって2016年は跳躍の年だ。日本市場においてソロとしてアリーナツアー開催できるほどになった。2PMメンバーの中で、日本においてアーティストとして最も認められているといえる。2PMもまた跳躍が必要である。その中心で2PMの進む道は音楽であると見せつけなくてはいけないのが彼である。この跳躍の第一歩として仮面をかぶってMBCの覆面歌王に出演した。ソロ歌手ジュンケイをみてほしいという思いであった。そしてこの「ほろ酔いインタビュー」においてテレビではできない話をしてくれた。父と母、その名前を呼ぶだけでも胸が苦しくなるが、今回はすべて話してくれた。駆け上がっていくジュンケイのスタートであるから。

ということで、あまりにも長いインタビューなので、二回に分けます!

インタビュー2